「これ、なんかいいな〜なんか惹かれる」
そう思う作品は、強烈な個性を放っているものより実は気に入っていることもしばしばあります。
きっと科学的に言えば脳のシナプスに引っかかったりして見てて快感だったり恐らく色々な理由があるでしょう。
でも、自分の絵に関してはこの「何かいい」を信用してないです。
自分の絵に掛けた時間を知っているから、長ければ長いほどいい、時間をかければかけただけいい作品になるはずという固定概念からなかなか抜け出せないのです。
他者の作品は最初に観た瞬間になんかいい、と思える。それは裏側にとてつもない何か(時間以外の決定的な何か)があると思っています。
わたしが自分の絵に感じる何かいい、は絵に掛けた時間や労力ももちろんですがそれ以外にも個人的な要因があると思います。
それは自分の過去からきている可能性が高く、子供心に安心や安全を感じる色合いや落ち着く雰囲気であったり、思春期の反骨的な意思の象徴(形)であったり、自分は他者とは違うかも知れないという特別感のある絵や音楽などの作品のオマージュであったりするからです。
皆がどうやって完成に向かっているのか気になります。
自分は自分の絵を常に疑っていて、気を抜くとすぐにまがいものが出てきてしまうので、描いた後に消して書き足したり、溶かしたりできる油絵が性にあっているのだと思います。
逆に、線を引いたり文字や象徴的な形を使っていてもそれが生きていて強烈な魅力がある作品に惹かれます。
例えばローズワイリーの絵
サイトゥオンブリの絵
決めの一手のようなかっこよさもあり、でも見るたびに表情が変わったりしてみていて本当にわくわくします。
私は文字を、足りない要素やインパクトを補う為に使ってしまうことがあります。

でも前述のアーティスト達は文字や形や線の一本一本が、一見適当に配置されているようにも見えますが、必然としてそこにあるのです。
描き続ける為には作品に説得力を持たせるものが必要だと考えています。
シンプルに画力なのか、語彙力か、はたまたコミュニケーション能力か、鑑賞したり考えたり試したり本を読んだり、自分が悪い意味で心地よいと思う所から出るためには別の何かで補わなければいけないと思っています。
自由に描くと言うことは、それ程までに縛られるということでもある気がします。
悩みは尽きませんが、描いて解放されたり悩んだりできるので、生きている実感を得られているのも事実です。
あまり考えすぎても頭が煮詰まってしまうので、今日は手を動かしてみることにします。
植村遥

Uemura Haruka

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